もうひとつの部屋

gooから来ました(^^) 昔々の、個人的な記憶です。

かつてのわたし、今の自分、どちらもヨクワカラナイ

 

幼い頃から、夜、布団の中で

「明日、目が覚めなければいいのに」と

思いながら寝つくことがよくあった。

思春期には「早く人生が終わればいいのに」という気持ちが

こころの底の方に「当然のこととして」広がっていたと思う。

「死んだらラクになれるのかな。少なくとも

何もかも忘れて、眠り続けることはできるんだろな…」と

常にどこかで思っていた時期もある。


ただ、自殺は良くないとも思っていた。

「生きていたいのにそれが許されない(病気などで)

人がたくさんおられるはず。そんな人たちの目の前で

いのちという札束に火をつけるようなコトは

してはいけない」といった感覚だった。

親や友人が悲しむだろう…といったことは

カケラもアタマに浮かばなかった気がする。


なので、「死」はいつのまにか

わたしにとっては「同伴者」になった。

生きている限り、すぐ隣に「死」がいて一緒に歩いている… 

そんな感覚を、若いわたしは仕方なく受け入れていたと思う。

「死」はオソロシイものではあっても、わたしにとっては最も近しい

ある種の理解者のような気もしていた。



それでも一度、半ば本気で「屋上に立った」ことがある。


わたしはまだ学生だった。

「ここから跳べば、生きることから解放される」

といった気持ちがあったと思うけれど…

下に広がる家々をしばらくぼんやり見ていたら
1軒に灯りがついた。

驚いた。

「家」の中には「人」が生きてるんだということに

わたしは気づいてなかったというか

忘れてしまっていたんだと思う。

 

他の家々にも、そこに暮らす人がいるのが一瞬でわかり
ぶん殴られたような気がした。

 

「ここから跳び込んでも、わたしには行ける所はない」


わたしを受け入れてくれるような景色は

そこからは見えなかった。

そこでは、すべての家に「各々の人生を生きている」人がいて

その人たちは、わたしとは無関係。

別の世界に生きているのだとしか思えなかった。


どこにも、行ける所はないんだと思いながら
ふらふらとアパートに戻った。

「死んでもどこにも行けない」

それだけはよくよくわかった気がした。


その後何十年、わたしは苦しいとき

近くの高いビルを見上げながら

「あそこから跳んだって、どこにも行けないんだ」と

自分に言い聞かせた。

生きているしか仕方ないんだということの

確認作業みたいで、苦々しかった。


それでも歳と共に、親よりは長生きしないと…

といった気持ちも芽生えてきたのかもしれない。

父は六十そこそこ、母は八十目前で
どちらも急逝した。


悲しむ余裕が自分にあったかどうか…

それでも、したわけでもない「約束」を

自分がやっと果たせたような気がした。

「親より長生きする」なんて

約束とも言えない、それ以前のこと。

それでも私は、肩の荷が下りた気がした。

だからといって「早く人生が終わってほしい」のは

それまでと変わらなかったけれど。


それなのに… 



「何らかの変化」がわたしの内部に

起こったせいなのかどうか…

気づいてみたら、わたしは

「いつ死んでもいい」人じゃなくなっていたらしい。


それまでは、「生きていたいと思わない」ので

長い間わたしは、たとえば「余命○○ヶ月」と言われたら

驚くと同時に、ほっとする気持ちもあるだろうな~

(早くそのときが来てほしいな)などと思っていた。


10年ほど前、早期の乳がんが見つかったときも

「どうせなら、手遅れで治療不能になってから

見つかった方がいいのに」と、内心かなり本気で思った。

医療と関わり合いになるのは面倒だし化学物質過敏症

医療従事者からは本気で取り合ってもらえないので余計に)

生きていたくない人間のために、多額の医療費を税金から使うことにも

正直、本人としての疑問(と抵抗感)があった(これは本当)

「がんは小さくても、遠隔転移が
絶対ないとは言い切れないので…」と言われ

わかっていますと頷く。当然のことだと思う。

絶対に体調を狂わせるとわかっているホルモン療法については

「私は受けたくありません」

きちんとしたドクターだったので

「それはあなたの決めることです」と、即OKが出た。


治療につき合わされる(という感覚)のは

本当にいやだったけれど、「好奇心」の助けを借りて

乳がんの治療体験を一度してみよう」といった気持ちで

なんとか乗り切ったようなものだった。


最後まで、再発や死を恐れる気持ちは湧かなかった。



それなのに…





ある朝、起きる前にふと

「余命○○ヶ月」のことを思い出した。

そして、本当に驚いた。というか

キツネにつままれたような?気持ちになった。

わたしに、あのいつもの「安堵の気持ち」が

全く湧かなかったからだ。

えっ? どうして??


そもそも自分がどう思ったのか

自分でもわからない(らしい)

 

すでに70歳を越えた今、それでも

「死ぬことを考えるのは、もう少し先の方がいいなあ」

な~んて思うようになってるのか、はたまた

「死ぬまでにしなければいけないことは

片づけておかないといけないな(あー面倒)」

と最初に思うのか、その程度のコトも
今のわたしにはワカラナイ。


とにかく「あーやっと終わりに出来るんだ」と

ほっとする気持ちが湧くまでに、これまでよりずっと

時間がかかりそうだということだけはわかったけれど…

 

やっぱり… なんだかダマされたような気がする(誰に?)



わたしと「死」とは、もうそんなに近しくはない。

現実的には年齢と共に、距離が縮まる?はずなんだけど

若い頃の「同伴者」の時代を思うと

普段は忘れているという今は、ずいぶん遠い関係だと思う。


それでも… なんか不思議だ。

一体何がどう変わったんだろうって

今もまだわかっていない自分がいる。

 

 

 

 

 

アタマの中では、いつも書いてるんだけど…

 

自分のブログ(「眺めのいい部屋」)を書くようになった頃から

モノを「言い切る」のは避けるようにしていた。

自分はそう思っても、それが正しいかどうか

読む人に理解されるかどうかはわからない。

なので、語尾を和らげたり

「違ってるかも」というニュアンスを混ぜたり

といった書き方を、努めてしてきた自覚がある。

自分は無知だという明々白々の落とし穴に
自分から落ちないように…という自衛策でもあった。


けれど「何かが変わった」ことで、「少なくとも自分についてだけは

言い切ってもいいんじゃないか」と、ごく自然に思うようになった。


なんでもないことかもしれないけれど

わたしにとっては、結構大きな変化だと思う。

それで文章が書きやすくなるかどうかは

また別問題だけれど。


 

 

「あ、これしよう!」って思いたい


自分の内部で「何らかの変化」が起きて以来
モノの見え方が変わった。

感じ方が変わった結果
気持ちの動き方も当然変わった。


「あ、これしよう!」って思うとき
それは些細なコトばかりだけど
なんだかうれしい。 


「しなきゃいけない」コトなんて
もうそんなにないんだ…って。

モロモロの義務も、雑用も
今のアタマじゃ出来そうにない。

「生産的」なコトはもう無理…と思う。



家族があまり好きじゃないモノは
買わない習慣になっていたけど…

たとえば「庭に生ったような」柿を
小さな良心市で買う。

道端の無人の農産物売り場。
「どれも一袋百円」だったり。


そして思う。

「そういえば、わたし
柿キライじゃなかったんだ」…とか。



でも、本当は

「今日は何もしなくていい」

っていう日が好き。

そう!大好き。いちばん好き!


ほんとは何もしたくない。

何もせずにいて
でも、ぜんぜん苦しくなくて

穏やかな気持ちで

「あ、きょうはこれだけしよう」


毎日そんなふうにしていられたら
いつか自分の暮らし方が
自然に出来てきそうな気がする。



でも実際は「そうは問屋が卸さない」?


いいことも、悪いコトも
起きるときは起きる。


今の平穏はそう続かない。
こころのどこかで、もうわかってる。


そのときはそのときで
自分に出来ることをするだけ。

でも、わたしにできることなんて
そのときあるだろうか…とも思う。


まあ、取り越し苦労ばっかしてても
しかたないよね(^^;






ふわふわ歩く、おんなのこ

 

セーラー服で、ふわふわ歩く

女の子を見た。


なにも持ってない手を広げたり

ちょっとうしろを見たりして

それでもふわふわ歩いてく。


中学生くらいかな。


足には白い綿のソックス。

靴ははかず

セーラー服も、白いライン、白いタイ。


そう言えば… 

わたしはエンジのラインにタイ

白いのにずいぶん憧れたっけ。

 

はいてない… ということは

この子は存在しないんだな。


目をあけたら、いなくなるんだな。



ただ歩いてるだけなのに

あんまり楽しそうで

遠くて顔もわからないのに

あんまり可愛く見えるから…

 

エイヤってがんばって目をあけた。

おんなのこは、いなくなった。


外は雨が止んだのか

日の出の光が、ほそく射してる。

 

おんなのこが可愛かった。

ただそれだけで、倖せ気分になっていた。

 

もしかしたら…


あれはわたしだったのかな。


神サマがちょっとだけ見せてくれた

幻プレゼントだったのかな。

 

 

 

 

こどもたちの言葉から

 

学校に行かないこどもたちを

近くで見ていたときに

たまたま耳にした言葉。


「おかあさん、わたしこのまま学校行ってたら

悪い子になってしまいそう。

学校行かんずつ(行かないままで)

おとなになってもいい?」 (小3女子)


・・・母親は「目からウロコ。そういう手があったかと(笑)
   それからは行かないのが当たり前になった」



(学校行かなくても勉強はしなさいと言われて)

「おばあちゃん、ぼくはいま

生きるか死ぬかってとこなんだ。

それどころじゃないんだよ」 (小5?男子)


・・・そばにいた母親は、「そこまでと思ってなかった。
   自分の見方はすごーく浅かったって、反省した。
   おばあちゃんは、モチロン黙った(笑」



(母親は、軽く注意したつもりだったのに)


「おかあさん、ぼくは今タマゴになってるんだから

もっとそっとあつかって」 (小3男子)


・・・母親は「大真面目で言われたから驚いた。
   それからはこどもを見る目がちょっと変わった」



「今、前にわかれ道があって

どっちを選んだらいいかわからなくても

何十年かしたら、どっちを選んでても

60点と61点くらいの違いなんじゃないかなあ。

長い目で見たら、たぶんそんなに違わない気がする」 (中3男子)


・・・聞いた先生は「含蓄のある、おとなの言葉みたいでした。
   どちらも及第点ってことも」




「おかあさん、わたし医者にはならない。

もしもなったら、自分でもなぜかわからないまま

必死で仕事して、結局燃え尽きてしまいそうな気がする」(中3女子)


・・・医者一族?に生まれて、暗黙の裡の期待を感じながら
   進学時に母親に告げた言葉。
   母親は、「驚いた。この年齢の自己洞察と思えなかった。
   もちろん、思う通りにしたらいいよって」



もっとあったはずですが、今はもう思い出せません。


県外に引っ越した子もいますが、他は最近の様子を

たまに人づてに聞くこともあります。


30年近く経った今、みんな大のオトナ(社会人)です。

・・・自分がオバアサンになるわけです(^^;


 

ここにずっといられたから……でも

 

8月前半は、あの戦争や原爆についての

テレビ番組が多くなる。

長崎で被爆した小学生たち。

全校生徒1500名のうち

1300人が亡くなったという。


生き延びた百数十名。

その中に、被ばくで視力障碍が残り

しかも中学生の頃には性被害に遭い

「だんだん人を避けて暮らすようになった」

という女性がおられた。


仕事はなかなか長続きせず

「パチンコ店に何度も務めたりしたけど

すぐクビになったり…」


被爆者保護(救済?)のためのカトリック系?の施設で

「これまでで一番若いって言われたけど」

受け入れられて、そこにずっと暮らしてきた人。


「あれから40年以上ここにいるけど…

ここにいられるようにならんかったら

わたしにまともな暮らしなんて…考えられん。

あり得んかった」

本当に感謝してる…と言いながら、それでも


「これまでは誰にも言わんときたのに

ここに出て話す気になったんは…」


『ひとり身』のつらさが言いたかったからだと。


「聞いた人にイヤな思いをさせるようなコトも

言う気になったんは、ただそのつらさを

知ってもらいたかったから」


男性の撮影スタッフに目を向けて

「ごめんなさいね。いやでしょ、こんなこと聞くの」


謝る必要のないことも謝るのは

赤の他人の中でずっと、おそらくは

さまざまな差別を受けながら生きてきた

この人の身の処し方…と思うと

家族が皆、亡くなった後の

「ひとり身」の人生が透けて見える気がした。


施設にいる人たちは、同じ被爆者。

気楽に、ときに楽しそうに話しているこの人の

孤独(という言葉では軽すぎる)の深さ

その冷たい手ざわりに

胸がしめつけられる思いだった。

 

翌日は、夕食後、家族や若い友人と

被爆した人1000人から話を聞いて録音する」を目標に

重い機材(オープンリールの録音機)片手に

全国を手弁当で回った人の実話ドラマ?を観た。


人物の気持ちのわからないところや

なぜ??な部分を口々に言いながら、聞きながら

深刻な内容、驚くべき(辛い)エピソードにもかかわらず

それはどこか楽しい時間でもあったのだろうか。


娯楽として消費できるような作品では全然なく

家族は、最後に「でも、なんか……重いよね、やっぱり」と

ためいきをついていたのだけれど。

 


そして、さらに翌日。今朝のこと。


わたしは、目が覚めるとき

なぜか突然、自分が本当にしあわせなのだと

初めて広々とした気持ちで思った。


自分はシアワセなんだろうな…と思うことは

これまでも何度もあったけれど

これほど「腑に落ちる」思いで

感じたことはなかったと思う。

 

あの施設にいた女性は

「ここにいられたからこそ

わたしはまともに暮らしてこれた。

40年以上もここでこうして…」


そして続けた。

「これがわたしの……」


そのあと、言葉が続かない。もう一度

「これがわたしの… わたしの…」


やはり言葉は出なかった。


あとに続くのは「人生」に近い言葉?

もしかしたら「一生」というニュアンス??


でも、わたしでもそう続けたくはない。


これがすべてとは思いたくないし

そんなに簡単に片づけたくない。


もっと大きい、もっと深いものを

言葉にしたかったんじゃないかと

わたしは勝手に思った。

 

あの人が口にした

「ここにずっといられたから」


わたしが今朝感じた幸福感・納得感も

言葉に直すと

「この家(家族・家庭)があったから」

「そこにずっといられたから」

 

世の中から、人から

とにかく離れて生きたかった。

実際、そういう経路を辿った人生になった。

 

それでも、わたしには

(保護区のような)「家庭」があり

もちろん被爆者でも視力障碍者でもない。


なのに、わたしは心から「しあわせだ」とは

思ったことがなかったのだと。

 

テレビの中のあの女性を知ってはじめて

自分は、昔も今も、しあわせだったんだと

「腑に落ちる」ものがあったんだと。

 

自分でも、何をどう感じてこうなったのか

シリメツレツな気がする。

あの女性に申し訳ない気がとてもする。


それでも、あの人が話して下さったおかげで

わたしの中の何かがリセットされたのを感じる。


娘(わたし)のことをずっと心配していた両親(故人)に

「もう大丈夫。約束を果たしたよ」と

言えそうな気がするほどに。

 

戦争の、原爆の、もたらす悲惨さを

父は教えたかったのだろうか

小学校低学年の娘たちに

雑誌ライフの有名な写真を見せるような人だった。


それは、感じやすいこどもにとっては

迷惑至極なことだったけれど

回りまわって、こうしてあの女性の話に

つながっていたのかと思うと…



人間は「核」を手放さないといけない。

爆弾として使うなんて言語道断。


そのことだけは身に沁みました。



番組や出演して下さった方々の意図とは

全く違う受け取り方を

あちこちでしたのかもしれないけれど

どうぞゆるしてください。

 

 

 

「『保護区』に暮らす」

https://muma-muma.hateblo.jp/entry/63d4e51ebff01dbbf76ad666ba877dc7

 

現実とつながれない朝

 

朝、目が覚めて

なんとか起き出しても

「昨日のつづき」にならない…

そんな日が、今でもある。


べつにウツっぽいわけでもなく

気分がはっきり沈んだり

重力が急に大きく?なったりとか…

そこまでのことじゃないのはわかる。


でも、毎朝するようなこと、たとえば

台所をちょっと片づけたり

着替えて散歩に出ようと思ったり

そんななんでもないことが

まったく自分と関係ないようで…

昨日までしていたことが

自分からすっぱり切り離されて

知らない人の生活、人生?にしか

思えなくなるような感じ。


いつもはそういうときは

お天気が下り坂だから…とか

雨が振りそうだし…とか

気圧?のせいにしたりする。


なにか理由があった方が

自分の元気のなさを、自分に対しても

たとえば若い友人に対しても

説明しやすくなるから。


そういう説明があると

一旦、そのことを片づけられる。


で、いやいやながらも

ヨクワカラナイ「今日」を始められる。

 

そんなふうにして一日が始まる朝が

最近は増えてきた気がする。


でも……


昔のように、何倍にもなった重力に

のしかかられて床に圧しつけられ

身を起こせない… なんてことはなくなった。


見える「世界」と自分が

全く無関係になることもなくなった。



それらを思えば、これくらいのことは

ユルさなければ…


今日もそんなことを思いながら

やっと起き出すことができた(^^;